第1章 キツネの住む街へ
春を待ち焦がれる人々の心に冬が嫉妬したのだろうか。4月は清明の頃、微かな氷の花々が夜空から音も無く降り続き札幌の街は深い新雪に包まれた。雪の季節を通じて地肌に塗り重ねられた天の白粉も今年は厚化粧に過ぎた。美白が時代の趨勢とは云え雲上に住んでいる化粧指導員も流行に煽られてしまったのだろうか。暦は卯月を迎えたというのに札幌の街にへばり付いた雪の塊は容易に落ちそうにない。
この春、札幌で大学生活を始めるために10日ほど前に郷里の秋田から引っ越して来た。初めての一人暮らしの部屋は大学から程近いアパートの4階にあり広大な大学の農場を一望する事が出来た。農場にも雪の白粉がたんまりと塗られていて見渡す限り一面の白い大地だった。自分の住むアパートは大学農場と「斜め通」と呼ばれる道路に挟まれた区画に建っていた。この「斜め通」にはあるキツネが住んでいる。捻くれ者との悪評高く「斜め通」を通る新入生をよく化かす。
「斜め通」を理解するために先ずは札幌の街並みについて話をしよう。札幌の街は碁盤の目状に造られている。道路も区画に沿って縦横に伸び互いに直角に交わっている。札幌駅周辺の番地の基準となるのが大通公園で住所の南北軸になっている。大通公園から札幌駅の方に向かうと北1条、北2条と北の数字が増えて行く。逆にススキノの方に向かうと南1条南、南2条と南の数字が増えて行く。それに対し東西の基準となっているのが創生川だ。人工の川で市街を南から北へと流れている。河川を挟んで西に行くと西1丁目、西2丁目と西の数字が増えていく。逆に東に行くと東1丁目、東2丁目と東の数字が増えていく。
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ちょうど大通公園と創生川が交わる当たりにテレビ塔が建っていて札幌の街を見守っている。札幌に来たばかりの人が街路を歩くと何時の間にか方向感覚を失う事がよくある。碁盤の目状に造られていて目印になるような超高層ビルもなく同じ位の高さのビルが横並びで建っているので方角の判別が出来なくなってしまう。自分も御多分に洩れず札幌の街で1度ならず2度3度と迷子になった。大学生にもなって迷子になるとは思っていなかったが見事に札幌の迷宮に迷い込んでしまった。
何度か迷子になるうちに信号機を見れば良いことに気が付いた。何故なら信号の標識には簡単な住所が記載されているからだ。それを見ることで自分が今いる住所を知る事ができる。そこから隣の交差点まで歩き信号機に書かれた住所を見て東西南北のいずれの数字が変わったかを計算するとどちらの方向に向かって歩いたのかが分かる。もしあなたが札幌で迷子になった時には三色目玉のお巡りさんに道を尋ねるのが一番手っ取り早い方法だ。自分は札幌に住み始めてから半月が過ぎ、少しは街に慣れてきた。しかし未だに見慣れぬ界隈を歩くと方向感覚を失ってしまう。札幌という北の都が田舎者を惑わせているように思えてならない。
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さて札幌の街並みについて語り終わった所で自分の住むアパートがある「斜め通」の話に戻ろう。しつこいようだが碁盤の目が札幌の区画の基本だ。しかし「斜め通」はその基本から外れている。大学のキャンパスは札幌駅の北側の敷地に蒼茫たる風貌をなして君臨している。札幌駅の北口から北に向かって伸びる広小路は通称「北大通」と呼ばれていて北8条から北15条まではキャンパスに沿って真っ直ぐ伸びている。しかし北15条でキャンパスとの境界が斜めに変わる。この道が通称「斜め通」と呼ばれている。北西方向に30度ほど斜めになる。この「斜め通」に入り込むと知らず知らずの内にそこに住むキツネに化かされてしまう。
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引っ越して間もない頃、何気なく「斜め通」に入り歩いていた。信号の標識が北だけでなく西の数字も増えていた。おかしい。自分は北に向かっていたはずなのにいつの間にか西に向かってしまった。キツネにつままれた気分だった。間違って西に向かってしまったと思い、右手方向に曲がる道に入った。だがこれこそがキツネの思う壺だった。暫らく進んで行くと道幅の広い「大学通」に出た。信号の標識を見ると「君は東に向かっているよ」と教えてくれた。さらに頭は混乱した。おかしい?自分は北へ進んでいる筈なのに東に進んでいる。一度頭をリセットして「大学通」を北に向かって歩いた。次の信号で北の数字だけが増えているのを見て安堵した。自分のアパートが北23条なので先ずは「大学通」を北23条まで北上し、交差点を左折して「自分は西に向かって歩いている」と呟きながら進んだ。ようやく「斜め通」に戻ってくることが出来た。左右を見回し自分のアパートを見つけると小走りで逃げ帰った。そんな新入生の醜態を見て、斜め通に住むキツネが尻尾を振りながらほくそ笑んでいた。
「斜め通」。名は体を表すという言葉通り道の方向が名前となっている。名前の由来は馬鹿正直だがそこに住むキツネは「捻くれ者」だ。札幌の街に嫉妬の雪が降る頃、白い大地の上に点々と続くキツネの足跡を見かけることがある。これからも「斜め通」のキツネは新入生を化かし続けていくことだろう。
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第2章 嫉妬の雪
嫉妬の雪が札幌を純白に染めた朝、大学で入学説明会があったので厚手のコートを身に纏いアパートを出て「斜め通」を大学に向かって歩いた。足元の新雪と根雪が交じり合い抜かるんだ。さらに自動車のスパイクタイヤによる粉塵が新雪と根雪の喧嘩に参戦して道の状態は泥試合の様相を呈していた。歩いているうちに靴の隙間から中に雪が入り込んできて靴下が濡れて足が冷たくなった。粉塵と混じり合って黒ずんだ泥雪のせいで入学に合わせて新調したばかりの革靴も呆れるくらい汚れてしまった。全くもって嫉妬の雪は始末が悪い。雪でも人でも嫉妬の後始末に手を焼くのは避けて通れないらしい。
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ぬかるみと格闘しながらキャンパスへの入口となる北18条門の手前の交差点まで来た。門に繋がる道の両側には大きな樹木が並び道の上まで枝で覆われていた。街路樹として木々を植えたというよりは大樹の間に申し訳なく道を通させてもらったという雰囲気で森の霊気が満ちていた。大樹は道行く人々を泰然と見下ろし、寒風に晒されて痛々しいまでに笹くれだった枝梢を鉛色に淀んだ空に向かって伸ばしていた。切実に芽吹きをもたらす柔風を天にせがんでいるようだった。春を待ち焦がれているのは人々だけではないらしい。
キャンパスに入るには北十八条門を通って行かなければならないと思っていたが大樹の間からキャンパスへと続く小道があった。学生達はその小道を通ってキャンパスに入っていたのでその流れに乗ってキャンパスに入った。一面が雪で覆われていて一本の錆色の細い道が伸びていた。雪掻きをして造られた道ではなく人が歩いた所に自然に出来た道だった。行き交う人々の靴底の泥で雪に描かれた一条の道だった。細い道を学生達が列を為す様子は蟻の行列に似ていた。行き交う人々は忠節な蟻のように一糸乱れぬ行進を見せていた。右手には並木、左手には蒲鉾型の体育館が見えた。泥の絵具で描かれた雪上の軌跡は入学説明会が行われる教養棟に向かって伸びていた。
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その手前の広場には緑のスタジアムジャンバーを着た人達が屯っていた。彼らはクラブやサークルの幟を振ったり宣伝板を掲げたりして広場を通らざるを得ない新入生に対して引っ切り無しに声を掛けて勧誘をしていた。緑のスタジャン軍団に混じって異様な風貌をした集団がいた。継接ぎだらけのボロの羽織袴を身に纏い下駄を履き、汚らしく黄ばんだ太綱を首に掛けていた。伸ばし放題の長髪に黒々と生やした無精髭。彼らを見て「何故、大学の中でヤッコの格好をしているのだろう?」と思った。ちなみにヤッコとは郷里の言葉で乞食と云う意味だ。
風貌だけでも常軌を逸していたのだがさらに驚いたのはその行動だった。雪の上に炬燵を置いて酒を飲みながら雑談に耽っている。「こいつら一体何者なんだ」と唖然とした。雪上で炬燵に入っている人間を生まれて始めて見た。郷里の秋田も雪国だがそんな情景を見たことがなかった。開いた口が塞がらなかった。茫然と立ち尽くしながら「札幌ではあまりに寒いから外でも炬燵に入るのだろうか?」と考えているとボロの羽織袴がビラを配布しながら近付いて来た。背中には「応援団」と墨字で書かれた幟が旗めいていた。話し掛けられたくなかったので顔を伏せて回れ右をした。振り向くとそこには髪を腰まで伸ばして髭も胸まで垂らした大漢が立ちはだかっていた。容貌は三国志演義に登場する関羽のようだった。その関羽と目が合った。荒ぶれた容貌に反して瞳は優しかった。彼はにこやかに笑った。しかし直ぐさま目を逸らし、踵を返した。逃げ去る猫のように後ろを振り返りそそくさと人込みを擦り抜けて教養棟へ急いだ。
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玄関前の二段の階段を跳ね上って扉を押し開けて館内に入った。扉は重い鉄格子でその奥は一畳ほどの狭い空間になっていた。その空間は人が出入りする際に外気が館内に直接流入しないように設けられている。北国にある建物の多くはこのような緩衝室を備えていて北の住人は「風の踊場」と呼んでいる。扉が左右に開くとその先にはロビーが広がっていた。床には茶色の長椅子が規則正しく並び四方の壁には硝子張りの掲示板が張り巡らされていた。
ロビーでは新入生らしき人達が厚手の外套に身を包んで所狭ましと犇いていた。ロビーに溢れた人人人の熱気で温められて室内は蒸し暑さを感じる程だった。長椅子に座って寛いでいる人。椅子に座れずに壁に寄り掛かる人。学生便覧や入学説明会の案内を熱心に読んでいる人。立ち話をして笑っている人。手に持ったサークルやクラブのチラシを見比べる人。皆それぞれが思い思いの行動をしながら説明会が始まるのを待っているようだった。
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入学説明会が行われる場所を確認しようと思い講義室の配置が書かれた地図がないか探し歩いた。ロビーの出入口の横には守衛所があり、そこの壁に地図が掲示されてあった。配置図を見て分かったのだが教養棟には北と南の二つの棟があった。南棟は2階建てで敷地も比較的小さかった。北棟は3階建てで敷地は南棟の10倍以上の広さを有していた。今、入った建物は北棟だった。
説明会の部屋を思い出そうとしたが記憶は不明瞭だった。「北332」号室だったような気がしたが「北323」号室だったような気もした。カバンを開けて説明会の案内を探したが見つからなかった。忘れてしまったと焦った。コートの左袖を捲って腕時計をみた。今からアパートに戻ったのでは到底開始時刻に間に合わない。このままでは初日から遅刻をしてしまう。その場にしゃがみこんでもう一度鞄の中を虱潰しに探したが見つからなかった。焦燥に駆られていると動悸が激しくなり体から汗が噴出してきた。熱気に耐え切れなくなりコートの釦を外しシャツの胸元を開けてコートの襟をはためかして風を送った。
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汗が退いてきて気持ちも落ち着いてきた。はためかせていたコートの内側を見ていてふと思い出した。昨夜忘れないようにとコート内側の胸ポケットに説明会の紙を折畳んで入れたのだった。忘れないようにとした事を忘れていた。胸ポケットに手を突っ込んで折り目正しく四つ折りに畳まれていた紙を取り出した。自分のクラスの説明会の場所は「北322号室」だった。
配置図を再び見た。北棟の3階の間取り図は一番上の方に書かれていたので字が遠く見づらかったので一歩近付き目を凝らして「北322号室」の場所を確認してから急いで階段を上った。階段の踊り場の壁には富士山の絵画が飾られていた。額縁を良く見ると「羊蹄」と書かれたプレートが付いていたが何と読めばいいのか分からなかった。訓読みすれば「ひつじひづめ」とも読めるが、山容は羊蹄の形には全く似ていなかった。少し変わった題名の富士山の絵かなと思った。札幌は富士山から遠く離れた土地なのにどうして富士山の絵が飾られているのだろう?と訝しく思ったが同じ日本なのだから別段不思議ではないのかなと思い直して階段を上った。
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3階まで階段を上りようやく「北322号室」を見つけて中に入った。既に大半の席に学生が座っていた。席には学生番号の書かれた紙が張られてあった。自分の席は嬉しいことに窓際の席だった。小学生の頃から窓際の席に座るのが好きだった。気兼ねなく雲を見ることができるからだ。一生懸命教えてくれる先生には申し訳ないが授業中のふとした瞬間に空に浮かぶ雲を眺めるのが好きだ。幾百種類とある雲の中でも一番のお気に入りは千切れ雲だ。蒼茫たる天碗において縮んでは伸び、消えては現れる千切れ雲を見ていると嫌な事を忘れる事ができた。しかし残念ながら、その日の札幌は生憎の曇り空だった。鉛色の空のから広場に目を転じると緑のスタジャン軍団とボロを纏った応援団が屯って居るのが見えた。窓の外を見上げても見下ろしても幾許も心に掛かる雲は晴れなかった。
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第3章 黒縁メガネ
薄墨色に滲む空を眺めていると教官が入って来た。小柄な体躯に今日の空色に似た地味な灰色のスーツを着ていた。前髪は後退していたが生えている髪は肩まで伸びていた。黒縁の大きなメガネを掛けていてその奥にある瞳はレンズの為か異様に大きく見えた。教壇での挨拶を手短に済ませてから最前列の席にてきぱきと資料を配った。そして再び教壇に戻った。
「私は数学者だから漢字は得意ではないので名前を読み間違えても容赦して欲しい」と前置きをしてから出席を採り始めた。彼の言ったことが本当だとすれば世界中の数学者は母国語が苦手だということになってしまう。そんな馬鹿な話はないだろうと心の中で苦笑いした。心の呟きを察知できる筈もなく黒縁メガネの教官はてきぱきと名前を読み上げていった。そして新入生の名前に対して「難しい名前だなぁ」「読み易い名前で良かった」「珍しい名前だね」「なんとか読める名前だ」「ありがちな名前だ」「漢字の読み方が何通りもあって間違え易い名前だ」「外人みたいな名前だ」と一人一人に対して短い感想を述べていた。寸評を終える毎に親指を軸にしてペンを鮮やかに一回転させていた。そしてそのペンで出席簿に書き込みをしてから次の新入生の名前を順次読み上げていた。確かに世の中にはいろいろな名前があり読み易い名前もあれば読み難い名前もある。しかしそれは全く表面的なことだ。彼の寸評を聞いているうちに段々と嫌な気分になってきた。名前の意味を全く無視して読み方という要素だけを冷静に分析していたからだ。確かに数学では冷静な分析や論理的な説明が要求される。しかしだからといって人の名前までそうする必要があるのだろうか?人の名前には家族の想いが込められている。新しく生まれてきた命への希みが託されている。その想いを蔑ろにするような彼の寸評にはそれがたとえ的を射ていようとも納得することは出来なかった。
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黒縁メガネの寸評を聞いているのが嫌になり片肘を付きながら窓の外を眺めた。先程まで広場にうじゃうじゃと屯っていた緑のスタジャン軍団とボロ服応援団が誰もいなくなっていた。ひとっこ一人いない薄汚れた白い絨毯の上には炬燵が一つポツンと置き去りにされていた。大学構内の向こう側にはコンクリートビルが立ち並ぶ街並みが広がっていた。空一面を覆い尽くしていた物憂げな雲は街を灰濁色に沈ませていた。札幌の街も何やら不機嫌そうだと物思いに耽っていると「くらうち たけみくん」と自分の名前が呼ばれた。
『はい』
「名前の読み方は合っていますか?」
「ええ。合っています」
「最後がミで終わる名前は女性が多いという定理があるのですが倉内さんは男性ですね。ミの字が美しいと云う漢字だったなら女性と間違えるでしょうね。実ると云う漢字は男性が多いですね」と黒縁メガネは御多分に漏れず自分の名前に対しても御丁寧な寸評を宣った。『オカマの格好をしている訳ではないのだから見れば男だって分かるだろう。ミで終わる名前は女が多い。そんな定理など聞いたことはない。それに何でわざわざ美という字を仮定しなければならないんだ』と文句を言いたい所だったが気持ちを抑えて適当に相槌を打ってから座った。
その後もペンをくるくる回しては彼独自の名前の定理なるものや漢字を換えた場合の仮定を披露していた。人の名前に対して定理だの仮定を持ち出すなんてこの人はきっと頭のてっぺんから足の先まで数学で造られているに違いないと思った。彼の言動を見ていて出欠確認の前置きで漢字が得意ではないと言ったのは屈折した自己謙譲に違いないと思った。得意ならば最初から得意だと言えばいいのにと思った。回りくどい説明が好きで何にでも結論を求めたがるのは数学者の性癖なのだろうか。黒縁メガネは出席を採り終わると今度は意気揚揚として自己紹介を始めた。
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「自分はこの大学で数学の教官を始めてから約20年になります。十年一昔と言いますからもう二昔もここで教官をやっている事になります。今の君達の年齢は20歳くらいなので大体君達がこの世に生まれた頃くらいからここで教鞭を執っている訳です。年齢はですね今年酉年の年男となりました。まぁ理工系の皆さんなら簡単に計算できると思いますので実年齢は敢えて言いませんが見ての通りかなりのオジサンです。君達の数学の講義も担当しますがクラスの顧問だからと云って成績の評価に関して一切容赦はしません。試験の点数が悪い人出席率が悪い人それから態度が悪い人には来年もう一度受講してもらいますので肝に銘じて講義に臨んで下さい。私は生粋の道産子ですがこのクラスの半分以上の方々は内地から来られています。正確な数字は忘れましたが比率で云うと約6割の方々が道外出身者です。例年内地から入学してきた学生は大抵札幌の雪の多さに驚きますね。見ての通り大学の構内は未だ厚い雪に埋れております。4月とはいえまだまだ肌寒い日が続きます。何時になったらこの雪は消えるのだろうと心配している人も多いと思いますがまぁゴールデンウィークには完全になくなると思いますので安心して下さい。例年ですねこの時期体調を崩す新入生が多いです。三寒四温と申しますように気候が安定しませんので健康管理には十分注意をして下さい。今君達が居る建物は見ての通り床のタイルや壁の塗装が剥げたりとかなり老朽化が進んでいます。この教養棟は丁度ですね私が入学した頃に建てられたものなんですよ。当時は最新の鉄筋コンクリートの建物でとても現代的な雰囲気があったんですがね。その頃は私も君達のように若々しい青年でした。それがこんなオジサンになってしまったのですから建物が古くなるのも当然ですね」
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「今となっては信じられないかもしれませんが私の在学中には工学部も洋風の木造校舎で白亜の素敵な建物でした。あの頃と最近の学生は大人しくなりましたね。私が学生の頃は講義中であろうと教官に質問をどんどん浴びせたものでした。今は教官として講義をしていても質問はあまりないですね。物分りが良くなったのか悪くなったのか分かりませんが学生が何を考えているのか理解しているのかいないのかさっぱり分かりません。もし君達が私の講義で質問があったら遠慮しないでどんどんして下さい。また昔と比べて自分の主張をしっかり言える生徒が少なくなったように思います。まぁあの頃は主義や主張が度を越してしまい暴力に変わり大学と紛争を起こした生徒もいましたが総じて若者に活気がありましたね。少なくとも今の若者よりは真剣に世の中のことを考えていました。今の若者は物に満たされて育った為か、いまいち生きることへの真剣さが足りない。戦中に生まれ戦後の物不足の時代に育った私から見れば歯痒くて仕方がない。君達には是非人生や社会を真剣に見つめ直して自分は如何なる人間として社会の役に立てるのかを考えて大学生活を送って欲しい」とそこで一旦話を切った。そしてペンを指で回しながら教室全体を悠然と見回してから再び話を続けた。
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「受験戦争と云われる今日の大学受験制度を潜り抜けてきた君達が持つ知識量は私たちの頃よりも増えていると思います。しかし、しかしですよ、今日の新入生は向学心が希薄なことこの上ない。大学に行けばあまり勉強しなくてもよいと勘違いしている学生の如何に多いことか。勉強は優れた成績を取る為に優れた大学に入る為に行うという考えが日本の社会に染み付いているのが原因なので君達だけを非難する気にはなれませんが実に嘆かわしいことです。そもそも学問とは知識の量を競うものではありません。学問とは知識や技術を道具として使い五感を働かせて新しい知を創造することなのです。この事を肝に銘じて大学では勉学に励んで欲しいと思います」と自己紹介から始まった彼の話は延々と続き最後はお説教に変わっていた。言いたい放題の御高説を話し終えた彼は得意気な笑みを浮かべて満足気に頷いていた。一人の生徒が挙手をして発言を求めた。椅子から立ち上がった彼は背が高く熊のような体躯をしていた。
「遠慮なく質問をしなさいっつう先生の言葉に甘えまして一つ質問があります。先生の若者に対する憤りは良く分かりました。けど今の若者を作ったのは親の世代だ。あなた方じゃないんですか?」黒縁メガネの顔から笑みが消え、教壇の上で腕を組み目を閉じて考えた。数秒後、何度か軽く頷いてから返答した。
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「なかなか痛い所を突かれてしまいましたね。君の意見は最もだと思います。君の指摘した通り今の若者を育てたのは親である私たちの世代の人間です。子供の教育は親の義務ですからね。私自身の話で恐縮ですが仕事に対しては100%の情熱と努力を払ったと胸を張ることができます。しかし我が子への躾や教育に対してはどうだったかと考えると胸を張ることはできないですね。実は私にも君達と同じ年頃の娘がいます。詳しくは話せないんですが最近喧嘩をしてしまいましてね。こちらは心配して忠告したつもりなんですけどね。それ以来家で会っても無視されてしまいましてね。目もまともに合わせてくれないんです。子供の事は妻に任せっ切りにしていたツケが今になって回ってきたのかなと反省しています。皆さんは親御さんを無視するということはしないで下さいね。三枝の礼は忘れずに心に留めて置いて頂きたいものですね」と苦笑いをした。
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第4章 乱入
時間割と学生便覧の資料説明が終わってから単位履修や一年半後の学部移行についての説明がされた。説明が終わりに差し掛かった頃に俄かに廊下が騒がしくなった。大勢の人が廊下にいる気配がした。
「一通り説明は終わりましたのでここからはクラブの方も交えて皆さんの自己紹介をしたいと思います」と黒縁メガネが教壇から降りて教室の扉を開けて屯していた人達に声を掛けた。玄関前に屯していた緑のスタジャン軍団とボロの衣を身に纏った応援団がワヤワヤと教室に乱入してきて講義室の前後に陣取った。余りに唐突な出来事に「入学の説明会の最中にクラブ勧誘の先輩が講義室へ入って来るってどういう事だ」と呆気に取られた。事態を飲み込めず茫然としている内に何人かの自己紹介が終わり僕の順番が来た。何を話すか考えてなかったので月並みの自己紹介をした。名前は倉内岳実。出身地は秋田。高校時代はバスケットをしていた大学でもバスケットをやろうと考えている事を話した。話し終えると申し訳程度の疎らな拍手が起きた。その後に自己紹介をした同級生で同じく高校時代にバスケットをやっていたという人がいた。その人は熊のような大男だった。
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「安尾秀って言います。人にはよくヒデって呼ばれますけどシュウって言います。見ての通りのでけぇ図体してるけど怖くはないので気軽にシュウと声を掛けてください。出身は長野です。高校ではバスケットをしていました。大学では何のサークルに入るかはまだ決めていません。大学では学びたいことが沢山あります。向学心で昔の若者に負けているつもりもないし世の中のことも真剣に考えているつもりです。皆さん宜しく」
と黒縁メガネに対して二の矢を放った。話し終えるとクラス全員の盛大な拍手が沸き起こった。僕も思いっきり手を叩いた。彼は拍手に対して軽く会釈をしてから席に付いた。
「先程は名前の読みを誤ってしまい失礼しました。しかし秀という漢字を音読みするのは珍しい読み方ですね。今まで私が受け持った生徒では始めてのような気がします。苗字も音読みすれば日本人というよりは何だか朝鮮人の名前のようにも見えますね。」
と黒縁メガネは反撃の矢を放った。非は自分ではなく君の名前にあると言っているような口調だった。また話し方が何か朝鮮人を蔑視しているような感じがしていてとても嫌な気分になった。クラスには韓国の留学生もいたというのに無神経この上ないと思った。このような無神経さがシュウに梓弓を引かせたのだろう。娘に無視されているという内輪話を聞いた時は少し同情した。しかしこれほど無神経ならば娘に嫌われるのも仕方がない。新しい知を創造することに対して五感を働かせるのは結構なことだ。しかし人の心を知ることに対してもっと五感を働かせた方が良いんじゃないですか?と彼のように面と向かって言いたかったがそれを言うだけの勇気がなかった。
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クラス全員の自己紹介が終わるとクラブの部員が丁寧に時間を掛けて活動内容の説明をした。話の内容はあまり覚えていなかったが鮮明に心に焼きついたのは緑に統一されたスタジアムジャンバーだった。ボロの衣を身に纏う応援団以外は緑色のスタジャンを着用していた。微妙なデザインやクラブ名は異なっていたが遠目に見れば殆ど見分けが付かなかった。否が応にもこの大学を象徴する色が分かった。でも何で緑色なのだろう?季節の大半が雪で覆われているのだから白が相応しいのではないのだろうか。ようやく長々と続いたクラブ説明が終わった。
ホッとしたのも束の間彼らは退出せずお互いに肩を組み始め、ボロの衣を身に纏った応援団が教壇に上がった。
「これから全員で校歌と寮歌を歌いますので新入生も隣人同士で肩を組んで歌って下さい。歌詞は配布されてあるこの寮歌集に書かれているので見てください」と冊子を高く挙げて誇らし気に示した。窓際の席だったので右隣の人と肩を組み左手に歌詞の書かれた冊子を持った。「アインツバインドラーイ」と応援団の掛け声が掛かり緑の軍団たちが大声で歌い始めた。肩を組んでいた隣の新入生は楽しそうに歌っていたが自分は口パクで歌った振りをしていた。歌詞を見る振りをして視線を硝子窓に移した。素っ気無い鉛空に小雪が舞っていた。喧しい唱声がただ耳に響いた。大合唱が終わると共に緑の軍団と応援団は教室から去って行った。その後クラスの仮総代や委員決めをして入学説明会がようやく終わった。説明会が終わってからバスケット部の見学に一緒に行こうとシュウに声を掛けてみようと思った。いざ声を掛けようと彼を見ると一見怖そうな容貌に少し近付き難さを感じた。葛藤しながらも僕は席を立って彼に向かって歩いた。傍まで近付いたが威風堂々とした雰囲気に気圧されてしまい声を掛ける事ができないままに横を素通りし、一人で教室を後にした。手に持った鞄がやけに重く感じた。説明会の教室に向かっている時には気にも留めなかったが廊下や階段の壁にはクラブやサークルの勧誘のビラが乱雑に貼り巡らされていた。無秩序に貼られた紙片の草叢からバスケットと書かれているビラを片っ端から探し手帳を取り出して練習時間と場所を書き留めた。階段を下りてロビーに戻った。そこは説明会を終えて出てきた新入生でごった返していた。さらに援軍を呼んで多勢となった緑のスタジャン軍団と応援団が新入生に声を掛けていた。その人込みを掻き分けて行く事を考えると嫌気が差したので中央玄関を避けて建物の北端にある小さい出入口から外に出ようと騒々しい廊下を早足で歩いた。風の踊場に入ってから再び扉を開けて外に出ると冬の名残がはらはらと頬に落ちてきた。肌で溶けた雪の冷たさが心地好かった。
第5章 ラブコール
その日の日の夜、炬燵の上に広げた時間割を眺めていた。大学では講義時間を「何時間目」と言わずに「何コマ目」と言う。一日の講義の割り振りは午前中に2コマ、午後に3コマとなっていた。必修外国語は英語以外にも履修しなければならなかった。理工系の学部だったのでロシア語、ドイツ語、フランス語の中から選ぶことができた。自分はロシア語を選択していた。それ以外にも選択科目がたくさんあった。必修科目は悩む必要はなかったが選択科目は高校にはない科目が多く何を履修すれば良いのか分からず悩んだ。
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ふと時計を見ると夜の10時を回っていた。2時間も時間割に噛り付いていたにも関らず決めあぐねていた。時間割に記載された講義の羅列を眺め続けていたせいで目が疲れてきた。気晴らしにお茶でも入れようかと思い炬燵を抜け出し台所に向かった。水道を捻りヤカンに水を入れている際中に電話が鳴った。ヤカンをコンロの上に置いて火を付けてから電話に向かった。時間からすると洋子からからの電話かなと思った。高校から付き合っている恋人だ。自分は共学の高校だったが彼女は女子高だった。鳳女子高と言えば地元では名の知れた進学校で当然、自分よりも成績は優秀だった。バスケット部の主将も務めていて後輩や同輩からの人望も厚かった。この春、二人とも高校を卒業し、彼女は東京で自分は札幌で新しく大学生活を始めていた。
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受話器を耳に当てると秋田のお国言葉で話す彼女の声が聞こえてきた。
「もしもしヨッコだけど。お晩です。タゲ元気だが?」
『うん元気だ。ヨッコは?』
「元気だよ。タゲ、今日は入学ガイダンスがあったんだべ」
『んだ』
「どうだっけ?」
『何だが訳の分がらねぇ説明会だっけな。教官の説教はくどかったし途中から応援団やら体育会の部員が入ってきて校歌どが寮歌を唱わせられるし。もう、すっちゃかめっちゃかだったな』
「ふーん、変ってるね。んでも何だが面白そう」
『面白ぐなんかねぇよ。応援団はボロ服を来てうろついているし髪も髭もボウボウだし。最初見だ時はヤッコだど思ったよ』と溜息混じりに話した。ちなみにヤッコとは乞食のことだ。
「ヤッコみたいな応援団がいるんだ。日本版ヒッピーみだいなものだべ。やっぱり面白そうだな」
『まぁ遠目に見でる分には面白れぇがも知れねぇばって目の前さ、そんた人が来たら吃驚するって。本当に凄んげぇだから』
「へーそんたに吃驚したんだ。ヨッコも一回見でみてぇな」
『実際に見たら本当にぶったまげるって。それにどこのクラブも緑色のスタジャン着てキャンパス内を歩いてるんだ。みんな同じ色だがら遠目にみれば何のクラブだが分がらねんだ。大学を象徴するんだば雪色の白が良いど思うんだばってな』
「スタジャンが白色だば雪の中で見分けが付がねんでねーの?」
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『それもそうだな。それでヨッコの大学はどんた感じだ?』
「こっちは外語大だけあってみんな真面目だ。そっちほど面白味がねぇな。それに、みんな頭良さそうそうだし。勉強さ付いて行げるかちょと心配だよ。語学の講義もびっしり詰まってらし毎年クラスの何割かは留年するんだって。遊ぶ暇もあんまりなさそう。タゲは講義大変そうだが?」
『さっきまで選択科目どれ選べば良いが考えでだんだ』
「ヨッコも、さっきまで講義案内見でだんだよ。それでタゲはどの科目にするが決まったの?」
『何も決まってね。選択科目がいっぺあって迷ってらんだ』
「ゆっくり決めれば良いべしゃ」
『んだな。履修届は月末までだし焦ってもしょうがねーな』
「んだ。焦るごとはねぇよ。そうそう話変わるばって、ヨッコ昨日ね、電車さ乗って渋谷のデパートさ買い物に云って来たんだよ。乗り継ぎがあってちょっと迷子になり掛かったたんだ。んでも何とか大丈夫だったよ」
『んだばヨッコの家から渋谷までって結構遠いんだが?』
「電車を乗り継いで大体30分ぐらいがな」
『30分も掛かるのか。あれ?ヨッコのアパートは何区さあるんだっけ?』
「北区だよ」
『んだ、んだ。北区だ。確か前にも教えてもらったな。北区南十条だっけ?』
「惜しいね東十条だよ」
『南じゃねくって東だったな』
「確かタケの住所も北区なんでしょ?」
『んだよ。札幌市の北区だよ』
「北区の名前だけならご近所みたいだね」
『まぁ地球規模の大きさからみれば近所みたいなものだ』
「また屁理屈喋ってら。近所って言うんだば今すぐ来てよ」
『無理だよ。札幌から東京まで何キロあるど思って』
「ん~確か800キロくらいだよ」
『そんた長い距離走って行ぐのは無理だべ』
「タケの言う地球規模でみれば大した距離ではねぇべしゃ。マラソン20回分くらいだな?」
「いや、いや、いや。走って行くのは無理だよ。そもそも津軽海峡があるから走って行げねぇよ」
『大丈夫だよ。青函トンネルがあるべ?』
『青函トンネルは汽車が通るトンネルだがら人は通れねぇよ』
「大丈夫だ。汽車が通れるんだば人も通れるべ。線路に沿って歩けば辿り着けるがら」
『無茶言うなよ。仮に青函トンネルを通って東京に辿り付いたとしても東京は線路が縦横無尽に敷かれでらがら線路沿いに歩いても迷子なってしまうべ』
「東十条の駅さも新幹線も通ってらがら盛岡から新幹線沿いに来れば大丈夫だ。ただ新幹線は通ってらだげで停まりはしねぇばってな」と洋子の笑い声が受話器に響いた。その声を聞いてこれ以上、言い訳しても敵わないと思った。
『ごめんなさい。屁理屈言った我が悪がったっす。許してけれ』
「んだばしょうがねな。許してやるが」と優しい声が聞こえた。
「話を戻すばって札幌も電車の乗り継ぎは面倒なんだが?」
『地下鉄の路線は三つぐらいあるんだ。んでも南北線しか使ったことがねぇがら何とも言えねぇな。まぁ東京ど比べれば少ないから楽だど思うよ。んで渋谷はどうだった?』
「すんごい人の数だっけよ。セリナと渋谷の駅前で待ち合わせしてたんだばってお互いを見つけるのでさえ一苦労だっけよ」
『ふーん、セリナど一緒だったんだ。元気だった?』
「うん。相変わらず元気満点だったよ。東京さ来て更にパワーアップした感じだな」
芹奈は自分の幼馴染で、洋子とは女子高のバスケ部の同期で二人はとても仲が良かった。実は高校時代に芹奈を介して洋子と知り合い付き合い始めた。
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「駅の中から街の中まで人、人、人で擦れ違う時には肩がぶつかりそうだっけよ」と実際の混雑の中に身を置いた時を思い出したように興奮して言った。
『芋洗い状態だな』
「んだ。本当に洗われる芋の気持ちが分がった気がしたよ。それに人波に押し流されで、セリナと逸れそうになるし、ビルが高くて空もちょぴっとしか見えねぇし。何だが巨大な迷路さ入り込んでしまった気がしたよ。札幌はどんた感じだ?」
『まぁ大館の街さ比べれば人間は物凄く多いよ。んでも東京の人込みほどではねぇな。札幌駅、大通公園、ススキノ辺りは人通りが多いばって大学周辺はのんびりした感じだ。道を行く人も学生が殆どだしな。んでも引っ越して来たばっかりの時はアパートの近くでさえ迷子になってしまったよ。今も時々迷ってしまうばってな。田舎者には迷路みたいなもんだ』と自嘲気味に答えた。
「本当?」
『本当だよ。なして嘘を喋ねばねってや?』
「芹奈に聞いだんだばって、ススキノってかなりの歓楽街なんだべ?」
『まぁ、んだみてぇだな』
「タゲ。ススキノで如何わしい店さ入れば駄目だよ」と少し訝しげに言ってから「まぁ、タゲにはそんな度胸はねぇが。」とからかうように言った。色街に興味が無かった訳ではない。寧ろ興味は物凄くあった。金銭の余裕が無いという事もあるが、何より洋子の言った通り度胸が無かった。好奇心よりも未知のもの対する臆病心の方が強かった。図星だったが故に余計に悔しい気持ちが湧き上がってきた。
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「あれっ。タゲいじけでしまった?」と洋子は気分を伺った。
『何も。いじけでねぇよ。別にススキノの店さ行くぐれぇ楽勝だ』と意地を張って強がった。
「ごめんね。ちょこっと、からがって見ただけだがらね」
『あぁんだが…』と気の無い返事をした。それからどう言葉を繋ごうかなと考えていると彼女の方から話し始めた。
「札幌はまだ寒い?」
『かなり寒んびぃよ。雪もまだいっぺ残ってらし。特に道端さは除雪した雪が山積みで残ってらな。秋田よりも雪の量は多いな。今朝もいっぺ降ったんだ。しこたま道が泥濘って歩ぐのが大儀だった。部屋の中も寒びくて炬燵とストーブがねぇば生ぎでいげねな』と言って思わず身を振るわせた。
「札幌さはまだ春が来てねんだな。んだば、これがら気温変わり易ぐなるな。タゲは風邪ひぎ易いがら気付けでな。炬燵さ入ったまま寝れば駄目だよ」と言う優しい声が僕の耳朶に触れた。
『うん気を付けるよ。心配してけでありがとう。んで東京の方はもう暖けぇが?』
「うん暖かいよ。こっちさは雪は全くねぇし。もう桜が咲き始めでるよ。今日もポカポカ陽気で春うららって感じの天気だったよ」
『良いなぁ桜か。こっちはそんな気配は全然ねぇな。昨日の晩にもいっぺ雪が降ったし。今日だって昼間にでさえ小雪が舞ってだよ。雪がねぇのは羨ましいよ』
「雪が全くねぇっていうのも何だが寂しいもんだね。東京さ来て思ったんだばって雪解けのキラキラした光が見れねぇ春って何だが物足りねぇ気がする。それに東京の春は埃っぽいんだ。そこがちょっと嫌だな。ちょこっとでも良いから雪を見てぇなぁ」と洋子はしみじみと話した。彼女の言ったように雪解けの光がない春は物足りない気がした。物足りないと言うよりも何か根本的なものが欠落しているような気がした。喩えるなら紅葉のない秋のようなもの。野山の彩りの移ろいが秋の象徴だように雪国においては雪解け水の輝きが春の象徴だ。
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洋子のしみじみとした口調が気に掛かったので努めて明るい声で話した。『雪解けを見れねぇのは拍子抜けだばって羨ましいよ。雪はあればあったで道は滑るし靴は汚れるし、大変だ。札幌は嫌になるぐらい雪だらけだよ。ヨッコのいる東京さ分けてあげたいぐらいだ。東京はもう桜なんだべ。良いな』
「大学の近くさ桜がたくさん咲く場所があるんだ」
『大学の近くで花見か、良いなぁ』
「大学の教室からも見えるんだよ。今日も窓から眺めたけど段々と色付いて来てるよ。んでもね。そこは公園ではねんだ」
『公園ではねぇっていう事は神社だが?』
「残念」
『うーん。せば河川敷だべ?』
「またまた残念。河川敷でもねーよ」
『んー、分がった。お城の跡だべ。弘前城みたいな感じの?』
「残念でした。実は墓場なんだ」
『墓場?墓場で花見すんの?』
「先輩たちは気にしねぇで花見するらしいよ。それに霊園だがら掃除や整備もさてで綺麗だよ。散歩する人も多くって何も怖くはねぇよ」
『ふーん。んでも何だが不気味だな』
「タゲはじぐなしだがら無理がもしれねぇな」と洋子は小馬鹿にするような調子で喋った。ちなみに「じぐなし」というは意気地なしと云う意味の方言だ。
『何も、大丈夫だって。墓と人間だけだば怖ぇぐねぇよ。違う物が出るんだば怖ぇけど』
「違う物ね。そこの染井霊園よりもむしろ校舎の方が不気味で違う物が出そうだな」
『校舎が?なして校舎が不気味なんだ?』
「大学の建物がボロっちいんだ。もう本当に壊れそうなの。壁や床さは、ヒビが入ってらし窓枠は錆びて取れそうだし。本当に崩れそうな感じだよ。夜中になったら本当幽霊屋敷みだい。あと数年で外語大は移転して、今の建物は21世紀には取り壊すみたいだよ」
『こっちの大学も古いけどそこまで酷くはねぇな』
「日本の大学で、あんなにボロイ校舎は少ないと思うな。夜なんか本当にお化けでそうだよ。大学さ比べれば人通りも多いし霊園の方が安全な気がするよ。そうそう明日ね、放課後にクラスの友達と一緒に染井霊園さ花見がてらに散歩に行ぐつもりなんだ」
「ふーん、いいな。札幌は桜咲く日が本当に来るんだが?って感じだ。ゴールデンウィークまでには咲ぐんだべがなぁ?」と自問するように言った。
「そっか。ゴールデンウィークか。タゲはゴールデンウィークには秋田さ戻るんだべ?」
『うん。戻るつもりだ』
「んだば次に会えるのはゴールデンウィークだね。1ヶ月後か長いな…」
『1ヶ月なんてあっという間だ。直ぐ会えるよ』
「早ぐ会いたいな。タゲ寂しくない?」
『まだ札幌さ来たばっかりでドタバタしてるし、街さも慣れてねぇし。寂しいど思うほど生活に余裕がねぇな』と何気なく答えた。
札幌での一人暮らしは洋子に会えない寂しさはあったが慌しかった。新たにやらなければいけない事、覚えなければいけない事が日々目まぐるしく降り注いできた。それに遠距離になったばかりで寂しいと弱音を吐くことが男として女々しくも思えた。
「ふーん。タゲは寂しくねぇんだ」と洋子は電話の向こうで膨れっ面になった。
『ホームシックになるには早過ぎるんでねの?』と少しからかうように言った。
「ヨッコは別にホームシックにはなってねぇよ」と切なく沈む洋子の声を聴いて心配になった。秋田にいた時は気丈で明るい女の子だった。一緒にいて愚痴を零らしたり寂しがったりする所を見たことがなかった。彼女には周囲の人を明るい気持ちにさせるという才能があったので女子高でも人気者だった。元気と笑顔それが彼女の代名詞だった。高校卒業を前にして「二人が遠距離になっても私は大丈夫だから頑張って付き合って行こうね」と言ってくれたのも彼女の方だった。そんな彼女が電話の800キロの彼方で寂しがっている。慣れない東京での一人暮らしのせいもあって精神的に弱っているのだろうっと思った。
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『ヨッコ。大丈夫だが?疲れでるんでねぇの?』
「ちょっと疲れでるがも知れない。ごめんねタゲ。ヨッコ、少し寂しがり屋さんになったがも知れない。会えないって切ないね」
『んだな。我も早くヨッコに会いたいよ』
「本当?んでも寂しくはないんだべ?」
その言葉を聞いてハッとし彼女を不安がらせた原因が自分の一言だった事に気が付いた。
『ヨッコに会えねぇのは寂しいよ。んでもほら。あんまり寂しい寂しいって男が喋っても何だが格好悪りぃべ?』
「本当だが?」
『本当だよ』
「うん分がったよ」
その時、カタカタと台所からお湯の沸騰する音が聞こえて来た。
『ちょっと御免。ヤカンを火に掛けたままだがらちょと待ってで。今、火を止めで来るから』と一旦受話器を置いて台所に行ってコンロの火を止めた。透明な硝子蓋を取り外すとヤカンの底から煮えたぎった泡がボコボコと音を立てていた。台所から戻り再び受話器を握った。
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『お待たせしました』
「お湯、零れでねがった?」
『うん。大丈夫だったよ』
「火付けながらの電話は危ねぇよ」
『んだな。気付けるよ』
「所でタゲ。今晩の天気予報見だが?」
『いや、まだ見でねぇな』
「札幌は明日快晴みたいだよ。降水確率0%だって」
『んだば、明日は青空が拝めるな』
「東京は曇りの予報だったけど秋田は晴れだって。東北から北は晴れみたいだね。高校の時は天気予報なんて秋田以外の所なんて気にした事もねがったのに。こっちさ来てがらは3箇所も見でしまうんだ」
『我も天気予報の場所には慣れねぇな。昨日天気予報見でる時も最初に秋田さ目が行ってしまったんだ。ここは札幌だがら海の向こう側にある秋田の天気予報を見でもしょうがねぇのにって思わず苦笑いしたよ』
「そっかぁ海の向こう側か。タゲのいる場所は海の彼方なんだもんなぁ。遠いなぁ」と洋子が呟いた。その後の数秒間、二人の間に寂莫が重く圧し掛かった。彼女の発した「遠いなぁ」という言葉が見ない釘となって自分の喉に打ちつけられた。その言葉を否定するために何か言い返そうとしたが如実に現実を言い当てていたその言葉が阻んだ。喉元に張り付けにされた言霊を何とか言葉として吐き出そうとしたが一言も話すことが出来なかった。遠く離れた二つの受話器に重く圧し掛かる寂莫を先に祓ったのは彼女の方だった。
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「ごめんね。困らせでしまったね。最初から分がってたことだもんね。もう二度と遠いって喋らねがら。ヨッコは遠くてもへっちゃらだよ。タゲもへっちゃらだべ?」
『うん。へっちゃらだよ。へっちゃら、への助。へのへのもへじで、何でもござれだ』と茶化して言った。
「ははは。何それ可笑しいの」と朗らかに笑った。
『ようやぐ、笑ったな』
「ありがとう」
『どう致しまして』
「ねぇ。タゲはヨッコのことを好き?」
『当だり前だべ』
「ヨッコも好ぎだよ。二人の距離は遠いけど頑張って付き合って行こうね」
『うん頑張ろう』
「んじゃ、おやすみなさい。さっきも喋ったばって季節の変わり目は風邪ひき易いがら気付けるんだよ」
『うん。ヨッコもな』と言って電話を切った。『頑張ろう』と自分が言った言葉は彼女に対してと云うよりも自分に対して言い聞かせていたものだった。彼女を想う心があればの僕らの関係は続いて行くと信じていたし彼女も同じ想いだと信じていた。しかし強く信じている一方で二人の心に灯る想い闇を隔てて揺曳する二つの儚い燭光のようにも思え、一陣の風で消え去ってしまう脆さも孕んでいた。二つの灯が互いの背後に作るそれぞれの影。影が揺らめく度に二人は底知れぬ不安に襲われた。
洋子の声が聞こえなくなった受話器を置いてからカーテンを少し開けてベランダ越しに外の景色を眺めた。牡丹雪が橙緋色の街灯に照らされながら静々と降っていた。無言で降り続け春の夜の寂莫を一層静かにしていた。窓越しに降りつづける牡丹雪を眺めていたら頭のカーテンことが閃いたので床に脱ぎっぱなしにしていたコートを手に取って羽織り、毛糸の帽子と手袋を身に付けて外に出てからアパートの裏手に回った。大学農場とアパートの敷地の境界には背丈程の金網の柵が伸びていた。それを攀じ登って乗り越えると両足が表層に積もった新雪を突き抜けて下層の粗目雪に突き刺さった。足を片方ずつ引っこ抜いてから空を見上げた。仄暗い夜空から無数の牡丹雪が降りしきりっていた。雪原の果ては雪で霞んで見えなかった。根雪の表層に儚く積もる新雪を掬い取って感触を確かめながら大小二つの雪玉を拵えた。
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